忍者ブログ
錯誤の数数に星の輝きを見つけるためのサイエンスフィクション
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

Srpska Listaという政党が選挙に向けたポスターの顔としたのは、党首の立ち姿でもスローガンでもなかった。道路沿いの看板に、数字の5とともに映し出されたのは女性の胸である。二つのふくらみは、宝石をちりばめた首飾りや、ペールブルーのレースブラを脇役に追いやり、中央でその存在を示している。

投票用紙のリストにおいて、この政党は5番目に名を掲げている。そして、日本でのDカップに相当するブラのサイズがかの地では5であるとのことである。Dカップの胸の力を借りて数字の5を有権者に印象づけようとする広告戦略を荒唐無稽とも言い切れない面がある。だが、その戦略の拠り所の合理性を、ましてやセンスの有無をここで議論したいわけではない。

胸のふくらみに目を奪われた何人かのドライバーが事故に見舞われた。目を引かなければ意味がないが引きすぎてもいけないというのか。ブラは交通広告の存立を問い直す機会をもたらした。
PR
二階で壁にもたれ、座卓のプルーンをつまんでいると、恵さんの声が聞こえた。「聞いたほうが早いから聞いてあげる」
恵さんの掃くほうきの音は、会話の間にも途切れることがない。むしろ大きくなったようにも感じられる。窓を開けると、小豆色のジャージを着た女子学生が二人、懇願するようなまなざしを上げた。

「Hi」と、私が勢いのある声を出すと、
「Hi」女子学生たちも、はにかんでぽつぽつと言葉を返した。
「What can I do for you?」さらに声を上げたとき、私はもう誤りに気づいていた。そう、女子学生たちは日本語を母国語とする人であったのだ。

以前、恵さんが留学生に問われ要領を得られなかった際、そばにいた私にすがった。今回もそうだろうと私は勝手に思い込んでいた。

「四角い赤い布切れが要るのかい?」
照れ隠しにほかならない。普段の私とはかけ離れたフレンドリーな口調がまだ続いていた。私の頬が赤く染まったのは夕日のせいばかりではない。しまりなくプルーンをつまみながらわずかでも役に立つところを示したいと哂われるほどの会話力を手駒にありもしない機会に飛びついた滑稽を私は恥じた。
あるロック歌手は自身のインタビュー記事のチェックを委ねられた際、語尾が「です」「ます」とおとなしい点が気に入らなかったらしく――原稿はていねいな本人の口調に忠実だったのだが、片っ端から「だぜ」「だろ」などと訂正していたと聞いた。

かと思えば、自分はていねいにしゃべっていたのに、記事を見たら全部「だぜ」に換えられていた。ファンのイメージを損ねないための方便だが、本意ではなかったと嘆いた人もいる。

字幕翻訳においても、そうした人物の性格づけを左右しかねない語の選択は、正解というものがないだけに加減が難しいらしい。

たしかに、田舎町の老人がしゃべるときまって「わしの若いころは」などと字幕がつくが、元大臣なんかは年をとっても決してそんな口調にならない。同じアイ(わたし)やマイ(わたしの)であるはずなのにうまいものだと苦笑を誘われることも多い。

それでも、アイ(わたし)やマイ(わたしの)で済んでしまうというのは、ある意味ラクでいい。自身の性格づけというか、自己演出に悩む必要がない。わたしなど、「俺」といってしまってから少しぞんざいだったかと後悔したり、適当な一人称を探っているうちに発言の機会を失ったりを懲りずにくりかえしている。
映画の字幕は俳優がしゃべっている間しか画面に出ない。字数が少ないぶんにはかまわないが、多すぎると観客はついていけない。目で追うヒマがない。だから字幕のせりふはふつう、吹き替え版のせりふと比べて短くなる。字幕翻訳の世界では、一秒のせりふに対して四文字以内に収めるという原則があるそうだ。三分の一にせりふを縮めなければならないことも間間あるという。

過酷な字数制限に悩まされる字幕翻訳者をめざす資質は当方に皆無だが、せりふの短縮という課題はおもしろいエクササイズになるのではないかと興味を抱いた。そう、仕事でないならきっと愉しいのではないか。

そこで、手始めに「後五分で家を出ないと間に合わない」というせりふをどう縮めるか考えてみた。「まだ五分ある」でどうだろう。

ネガからポジに心情を反転させるなんてちょっと気が利いているではないか。そう手を打ったのも束の間、やはり当方に資質はなかったかとがっくりきた。常に何ものかに追われ、時間が足りない足りないと嘆いている人物と、限られた時間であってもゆとりを持ってスケジュールを立て、存分に活用する人物とでは、その姿勢に隔たりがある。素人ゆえの安易さにより元の人物像を歪めてしまったと気づいたからだ。
鈴木大拙はいわずと知れた「禅」についての研究の大家だが、誤植により「褌」の研究家とされてしまった。高橋輝次編著『誤植読本』(東京書籍・2000)では、上記を筆頭に数多の誤植の例が披露されている。

手書きの原稿が主流であった時分には、「鼻をならし」たつもりが「鼻をたらし」てしまったり、現美容学生であるはずが理美容学生になってしまったりということはザラであった模様である。

著者の筆跡の癖が誤植の誘因となる場合もあれば、校正者の常識が著者の意図とは別の意味を招いてしまう場合もある。次の例などは、その双方が相乗的に作用したものと推測される。

モスクに付随する塔をミナレットと呼ぶが、それは灯台に由来するという説もあり、語源をたどれば「光の塔」を意味することから、日本語としては「光塔」と訳されることがある。だが校正者はより一般的な語である「尖塔」に書き換えてしまった。意味が通らないわけではないが、建築のエキスパートたる著者には受容れ難かった。

記憶とはおかしなもので、本書を読み終えたとき、さて過日の私の誘いに知人の目は光ったのであったか、尖ったのであったか思い出せなくなってしまった。興味を示すのと、困惑するのとでは隔たりがある。たぶん興味を示したはずだが、情報を都合よく歪めるのが人の習性であるから当てにできない。
PREV ←  HOME  → NEXT

カレンダー

03 2026/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
戸垣巻太郎
性別:
男性

バーコード

ブログ内検索

忍者アナライズ

Copyright (C) 2026 字幕の誤り All Rights Reserved.


忍者ブログ [PR]