ある日、夫は携帯電話を置き忘れて家を出てしまった。妻がここぞと中身を検めるのは洋の東西を問わない本能的な行為であるらしい。自分の登録名が「グアンタナモ(Guantanamo)」であることを知ったサウジアラビアの女性は、早早に離婚を要求したという。
キューバ東南部のグアンタナモ湾に位置するアメリカ海軍の基地が、グアンタナモ米軍基地である。ブッシュ政権下の2002年からはアフガニスタンやイラクで拘束されたテロ容疑者の収監所としても使用され、情報収集を名目に拷問に等しい人権侵害が行われているとの批判にさらされた。オバマ大統領は、この収監機能の閉鎖を選挙公約に掲げたが、未だ果されずにいる。
なるほど妻が怒るのも無理なからぬことと思われる。夫は妻をこの悪名高い収監所になぞらえることで密かに溜飲を下げていたのだろうか。
しかしふと別の考えが頭をよぎった。「刑務所」は、自由の欠如という文脈においてしばしば「結婚」の隠喩とされる。が、裏腹に「至上の愛」を表す通用もあったのではなかったか。離れたくても離れられないほど愛してしまった恋人を「刑務所」になぞらえたラブソングがたしかあったと記憶している。
この夫が何を思って妻を「刑務所」と呼んだか、乏しい資料からは読み取れないが、恋は盲目の箴言を俟つまでもなく、愛と不自由は存外と近しいのだろう。
キューバ東南部のグアンタナモ湾に位置するアメリカ海軍の基地が、グアンタナモ米軍基地である。ブッシュ政権下の2002年からはアフガニスタンやイラクで拘束されたテロ容疑者の収監所としても使用され、情報収集を名目に拷問に等しい人権侵害が行われているとの批判にさらされた。オバマ大統領は、この収監機能の閉鎖を選挙公約に掲げたが、未だ果されずにいる。
なるほど妻が怒るのも無理なからぬことと思われる。夫は妻をこの悪名高い収監所になぞらえることで密かに溜飲を下げていたのだろうか。
しかしふと別の考えが頭をよぎった。「刑務所」は、自由の欠如という文脈においてしばしば「結婚」の隠喩とされる。が、裏腹に「至上の愛」を表す通用もあったのではなかったか。離れたくても離れられないほど愛してしまった恋人を「刑務所」になぞらえたラブソングがたしかあったと記憶している。
この夫が何を思って妻を「刑務所」と呼んだか、乏しい資料からは読み取れないが、恋は盲目の箴言を俟つまでもなく、愛と不自由は存外と近しいのだろう。
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BBCの気象予報士アレックス・ディーキン(Alex Deakin)は土曜の夜、翌日の日曜日は気持のよい陽射しがいっぱいに降り注ぐだろうと伝えよとうとした。だが、「陽射し」という言葉の代わりに彼の口をついて出たのは、なぜか女性性器を表す禁止用語だった。「太陽がいっぱい」ではなく「×××がいっぱい」と。
その二つの語に音声的な類似が見当たらないために、その瞬間いったい彼の頭のなかでどのような連想が展開していたのだろうかと憶測を呼んだ。
地図上のウェールズの首都カーディフ(Cardiff)を眺めながら「陽射し(sunshine)」と言おうとしたら「cu*t」になってしまった。曇り空(cloudy)の印象が残っていたから「陽射し(sunshine)」が「c*nt」になってしまったのではないか。と、いくつかの好意的な解釈も出されたものの真相は謎のままである。
その二つの語に音声的な類似が見当たらないために、その瞬間いったい彼の頭のなかでどのような連想が展開していたのだろうかと憶測を呼んだ。
地図上のウェールズの首都カーディフ(Cardiff)を眺めながら「陽射し(sunshine)」と言おうとしたら「cu*t」になってしまった。曇り空(cloudy)の印象が残っていたから「陽射し(sunshine)」が「c*nt」になってしまったのではないか。と、いくつかの好意的な解釈も出されたものの真相は謎のままである。
「裸足で草の上を歩いてみませんか」。オーストラリアのとある製靴会社はそう問いかけた。「KUSA」と名づけられたそのゴムぞうりには、びっしりと芝草が植え込まれている。「あなたがどこまで走っていこうとも、ずっとその感触を味わうことができます」。
もっとも芝草といっても人工であるから、水遣りの心配はない。人工芝といえば、寸分の狂いもなく刈りそろえられた味気ない広がりを想像しがちだが、このゴムぞうりにはやけに無造作に不揃いの芝草が盛られてる。緑のなかに枯れたような薄茶を忍ばせるあたりも心にくい演出である。
「KUSA」が「草」であることに疑う余地はない。「sushi」や「sukiyaki」に続き、「kusa」も国際舞台に上ったか、と我が子の成長に目を細める心持を一時楽しんだが、その喜びはそう長くは続かなかった。
というのも、「草」ならば「grass」で十分ではないかと気づいたからである。「sushi」や「sukiyaki」は他に呼びようがないからそう呼ばれるのであり、事情は大きく異なる。
これでは「草草履」ではないか、同語反復もはなはだしい。かねてより移り気な著者は、いや「草ゴム草履」か、百八十度二回回れではないが、もはや何が言いたいのやら分からない、などと手のひらを返したように雑言を並べ始めた。冗長なのはよろしくない。そう、単純に「草履」でよいのだ。
そもそもゴムぞうりとは、草履の特殊形態であったはずだ。昔はイグサなどで編んだからこそ草履と呼ばれたものだろう。それが草素材ではなくなったときに、「ゴムぞうり」という言葉は生まれた。するとこの「KUSA」というシンプルなネーミングには、草履のルーツや日本文化への深いまなざしがあるのではないか。そんな気がしてきた。
「目を閉じてください。そうすれば、あなたはそこにいます」。そことは草の上だろうが、いまではフレーズが妙に哲学的に聞こえるから不思議である。
もっとも芝草といっても人工であるから、水遣りの心配はない。人工芝といえば、寸分の狂いもなく刈りそろえられた味気ない広がりを想像しがちだが、このゴムぞうりにはやけに無造作に不揃いの芝草が盛られてる。緑のなかに枯れたような薄茶を忍ばせるあたりも心にくい演出である。
「KUSA」が「草」であることに疑う余地はない。「sushi」や「sukiyaki」に続き、「kusa」も国際舞台に上ったか、と我が子の成長に目を細める心持を一時楽しんだが、その喜びはそう長くは続かなかった。
というのも、「草」ならば「grass」で十分ではないかと気づいたからである。「sushi」や「sukiyaki」は他に呼びようがないからそう呼ばれるのであり、事情は大きく異なる。
これでは「草草履」ではないか、同語反復もはなはだしい。かねてより移り気な著者は、いや「草ゴム草履」か、百八十度二回回れではないが、もはや何が言いたいのやら分からない、などと手のひらを返したように雑言を並べ始めた。冗長なのはよろしくない。そう、単純に「草履」でよいのだ。
そもそもゴムぞうりとは、草履の特殊形態であったはずだ。昔はイグサなどで編んだからこそ草履と呼ばれたものだろう。それが草素材ではなくなったときに、「ゴムぞうり」という言葉は生まれた。するとこの「KUSA」というシンプルなネーミングには、草履のルーツや日本文化への深いまなざしがあるのではないか。そんな気がしてきた。
「目を閉じてください。そうすれば、あなたはそこにいます」。そことは草の上だろうが、いまではフレーズが妙に哲学的に聞こえるから不思議である。
胎児の毛を「胎毛」と称するそうである。赤ちゃんが初めて切ってもらった、つまり毛先側にははさみが触れたことのない「胎毛」で作る筆を「胎毛筆」という。それは伝統的なギフトでもあるらしい。
はじめて「胎毛筆」という語を目にしたとき戸惑った。それは「胎毛|筆」と区切られるのか「胎|毛筆」なのか、とっさに判断がつかなかったからである。
「毛筆」というより一般的な語に注意を引かれる一方、「胎毛」が同音の「体毛」を連想させたのだろう。はて、赤ちゃんに体毛はあったろうか。あっても産毛程度のものだろう。そんな微かな毛でどうやって筆を作るというのか。と、疑問とともに思考は迷宮に誘い込まれた。
毛といっても毛髪であって体毛ではない。だがそうなると、今度は「毛髪」と「毛筆」がオーバーラップを始めてしまう。やはりめまいは治まってはくれない。
さて、著者が情報収集のためにひもといたのは光文堂という工房のウェブサイトであったが、なるほど筆づくりにしっくりとくる商号である。だが同時に、町の筆耕屋、印鑑店、名刺印刷所……どこででも見かけそうな商号である。それもやはりめまいの種になるのであった。
はじめて「胎毛筆」という語を目にしたとき戸惑った。それは「胎毛|筆」と区切られるのか「胎|毛筆」なのか、とっさに判断がつかなかったからである。
「毛筆」というより一般的な語に注意を引かれる一方、「胎毛」が同音の「体毛」を連想させたのだろう。はて、赤ちゃんに体毛はあったろうか。あっても産毛程度のものだろう。そんな微かな毛でどうやって筆を作るというのか。と、疑問とともに思考は迷宮に誘い込まれた。
毛といっても毛髪であって体毛ではない。だがそうなると、今度は「毛髪」と「毛筆」がオーバーラップを始めてしまう。やはりめまいは治まってはくれない。
さて、著者が情報収集のためにひもといたのは光文堂という工房のウェブサイトであったが、なるほど筆づくりにしっくりとくる商号である。だが同時に、町の筆耕屋、印鑑店、名刺印刷所……どこででも見かけそうな商号である。それもやはりめまいの種になるのであった。
アナウンサーの読み上げるニュースを聞き流していて、あれと違和を覚えあることがある。キーボードを叩いていたり、資料に目を落としていたり、他の主たる活動により多くの注意を向けているため、いい加減に聞き流しているのだが、突如くっきりと文言が立ち上がることがある。
なぜかと問えば、それは読み誤りであることが多いようだ。同僚が指摘し、その場で言い直されることもあれば、そのまま流れていくこともある。最近の例では「きしくも」と確かに聞こえた。文脈を取れば九割方「奇しくも(くしくも)」と言いたかったのだろう。
が、きとくは微妙でもある。いや「くしくも」と言ったのだ、聞く耳の問題ではないかと押し切られたなら自信はない。
あらかじめ誤解を避けておくと、著者に誤りをあげつらおうとの意図は皆無である。その昔「刃傷(にんじょう)沙汰」をにんしょうざたと思い込んでいた著者は、ビジネスの場で何の迷いもなくそう声に出し、とても恥ずかしい思いをしたことがある。それがトラウマになったといえば大仰だが、爾後読み誤りに対しては、過度の関心を抱いてしまうようなのだ。
前述の「奇しくも」にしても、さてきとくはどちらが正しかったかといつか暗中に佇んでいる始末である。ならば、せっかく気になった縁であるから、ここに書き留め、以後迷いのないようにしたいと目論んだわけである。
以上、本稿の意図を述べた。
なぜかと問えば、それは読み誤りであることが多いようだ。同僚が指摘し、その場で言い直されることもあれば、そのまま流れていくこともある。最近の例では「きしくも」と確かに聞こえた。文脈を取れば九割方「奇しくも(くしくも)」と言いたかったのだろう。
が、きとくは微妙でもある。いや「くしくも」と言ったのだ、聞く耳の問題ではないかと押し切られたなら自信はない。
あらかじめ誤解を避けておくと、著者に誤りをあげつらおうとの意図は皆無である。その昔「刃傷(にんじょう)沙汰」をにんしょうざたと思い込んでいた著者は、ビジネスの場で何の迷いもなくそう声に出し、とても恥ずかしい思いをしたことがある。それがトラウマになったといえば大仰だが、爾後読み誤りに対しては、過度の関心を抱いてしまうようなのだ。
前述の「奇しくも」にしても、さてきとくはどちらが正しかったかといつか暗中に佇んでいる始末である。ならば、せっかく気になった縁であるから、ここに書き留め、以後迷いのないようにしたいと目論んだわけである。
以上、本稿の意図を述べた。

