<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?>
<rss version="0.91">
  <channel>
    <title>字幕の誤り</title>
    <description>錯誤の数数に星の輝きを見つけるためのサイエンスフィクション</description>
    <link>http://subtitle.side-story.net/</link>
    <language>ja</language>
    <copyright>Copyright (C) NINJATOOLS ALL RIGHTS RESERVED.</copyright>

    <item>
      <title>対話のファクター</title>
      <description>&lt;span style=&quot;color:#669900&quot;&gt;対話とは、方法や技術ではなく態度なのだということを言ってきたように思う。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
ユニークな発想や柔軟な思考ができる人間は、たいていの場合、対話的な要素を持った家庭環境や教育環境にいた経験があるのだ。&lt;/span&gt;
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
のっけから立て続けの引用となった。平田オリザ『対話のレッスン』（小学館・2001）の主眼は、そうした対話の態度を身につけることの重要性を説くことにある。では、その対話とは何かを詳らかにしておこう。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
&lt;span style=&quot;color:#669900&quot;&gt;「会話」が、お互いの細かい事情や来歴を知った者同士のさらなる合意形成に重きを置くのに対して、「対話」は、異なる価値観のすり合わせ、差異から出発するコミュニケーションの往復に重点を置く。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
その摺り合わせの過程で、自分の当初の価値観が変わっていくことを潔しとすること、あるいはさらにその変化を喜びにさえ感じることが対話の基本的な態度である。&lt;/span&gt;
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
私とあなたは違うということを受けとめたうえで対話を始めることの重要性と、その痛みをともなう愉しさを氏は強調している。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
「会話」が「対話」ではないとされる点は先に引いた。外向性は言うに及ばず、実際に顔を突き合わせることなども、厳密には対話のファクターとはならない点に注意しておきたい。象牙の塔をはじめとする感覚に訴える語句に知らず知らず影響されてしまうためだろう、対話には現実的な関わりが不可欠であると信じがちだが、それはある意味飛躍である。極言すれば、空想のなかでも対話は可能であるはずだ。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
現代のコミュニケーションにおいて、メールが大きな役割を果たしていることは周知の事実である。メールでの伝達と顔を突き合わせての伝達にはそれぞれ長所があるものの、メールでは対話はできないという捏造めいた結論はほんらい導きようがない。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
摺り合わせとはいうが、饒舌な相手もいれば寡黙な相手もいる。場合によっては、微かに口もとに生じた戸惑いを読みとらねばならないこともあるだろう。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
歴史上の人物が遺した言葉や小説などの書物、あるいは天声や心の声であってもそれらに対して対話を試みることはできる。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
当「字幕の誤り」でも、さまざまな声との対話を試みたいと考えている。世のポジとネガのありようについて考察を試みた「kasumisoh 003」なども（成果はまだ心許ないが）ユニークな発想や柔軟な思考を獲得するためのレッスンたらんとするものである。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
&lt;span style=&quot;color:#FF0099&quot;&gt;■&lt;/span&gt;&lt;a href=&quot;http://www.youtube.com/watch?v=i3z8YwVbH44&amp;feature=channel&amp;list=UL&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;kasumisoh 003 video&lt;/a&gt;</description> 
      <link>http://subtitle.side-story.net/Entry/38/</link> 
    </item>
    <item>
      <title>上がる角と下りる爪</title>
      <description>気持の浮き沈みというくらいだから、心は上下に動くのだろう。きょうは上（Up）と下（Down）のレッスン。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
(U) 気分が弾めば顔も明るくなり&lt;br&gt;
(D) 落ち込んだときには顔色も沈む。&lt;br&gt;
(U) 人は夜明けとともに眠りの淵から浮上し&lt;br&gt;
(D) 日が落ちると眠りに落ちる&lt;br&gt;
(U) 角を下から上に突き上げて攻撃する雄牛&lt;br&gt;
(D) 爪を上から下に振り下ろして攻撃する熊&lt;br&gt;
(U) わからないものはいつも、頭よりいくぶん上方に漂っているようだ。それを見つめる者はすこしあごを上げ、届きそうで届かない場所に向かって希求の手を差し出す。&lt;br&gt;
(D) ようやくそれを理解したとき彼は、それを組み伏せたように感じるだろう。もうそれは手を伸ばさなくともよい低い場所にある。&lt;br&gt;
(U) 人工衛星は軌道まで打ち上げられる。他方&lt;br&gt;
(D) ミサイルは地上の目標に向かって落ちたり、空中の目標を撃ち落としたりする。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
&lt;span style=&quot;color:#FF0099&quot;&gt;■&lt;/span&gt;&lt;a href=&quot;http://youtu.be/ZceSJMzkLaU&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;tanabata 006 video&lt;/a&gt;</description> 
      <link>http://subtitle.side-story.net/Entry/37/</link> 
    </item>
    <item>
      <title>球技のファクター</title>
      <description>そもそも野球をなぜ野球と呼ぶのだろう。風を感じる野外で行われる球技であったからだろう。東京ドームができた際、野球は野球でなくなったというようなことを千葉茂がつぶやいたと聞いた記憶がある。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
野球がなくなってもベースボールは続いている。ベースボールにとって「野」はファクターではなかったのだ。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
もっとも、以上の議論は「野」を屋外と捉える感覚を前提としている。それを広い平らな地と考え、屋根の有無を不問に付するならば、野球は東京ドームとも齟齬を来すものではない。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
だが野球に限らず、多くの球技は平らな地で行われる。野球のフィールドはずっと広いじゃないか、と鼻で笑われそうだが、どれだけ広ければ野と呼び、狭ければ呼ばないかはあいまいである。ベースボールを野球と称する論拠はやはり弱い。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
野球の場合と引き比べて、サッカーを蹴球と呼ぶのは実にわかりやすい。蹴らずにサッカーはできない。ハンドボールは送球と呼ばれるが、中国語では手球であるらしい。それもわかりやすい。試合中に何度も手で球を送り合う。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
籠球という呼称の手応えの確かさは、野球と蹴球の中間に位置するだろうか。バスケットボールにおける籠は、ベースボールにおける野よりもずっと、球技の本質に関わっているという印象がある。だがたとえ籠でなくとも、リングだけでもよいとも思われる。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
野球は棒球とでも呼んだほうがわかりやすかったのではないか。バットなくしてこの球技は成り立たない。またその道具は明快な形状を有しているから、バスケットにおける籠のような象徴的な役割を付与しやすい。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
だが新たな疑問が浮上した。おおロミオではないが、棒はどうして棒なのか。それはより根源的な疑問である。それに使うのはバット（bat）であって棒（stick）ではない。バットを棒と呼ぶのは少少大ざっぱとも思われる。つまるところ、野球は野球であってサッカーではない。それでよいではないかと得心したしだいである。</description> 
      <link>http://subtitle.side-story.net/Entry/36/</link> 
    </item>
    <item>
      <title>石切りをする</title>
      <description>「&lt;a href=&quot;http://subtitle.side-story.net/Entry/33/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;塔からの視線&lt;/a&gt;」（2012/04/14）では、縦（Vertical）と横（Horizontal）のエクササイズを行った。その縦と横を言い換えれば、垂直と水平ということになる。今回は、同じ縦と横でも、南北と東西について考えてみたい。自分の体の前後を縦（Straight）、左右を横（Transverse）と捉える感覚である。実際に見たわけではないが
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
(S) ムカデは縦に動き、&lt;br&gt;
(T) カニは横に動くのだろう。&lt;br&gt;
(S) 前方のボールに対してはスライディングレシーブが、&lt;br&gt;
(T) 横方向に逸れたボールに対しては回転レシーブが選択されたものである。&lt;br&gt;
(S) 先へ先へとストーリーは語られるが、&lt;br&gt;
(T) 風景にせよ心理にせよ、描写は時間経過を中断する。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
石投げ遊びでわれわれは、少しでも長い時間石を走らせていようと格闘する。石切りをする際、知らず知らずわれわれは、アンダースローのピッチャーと彼の手から放たれるボールをイメージしている。ホームベースに向かうボールや、対岸をめざす石は体の前方に放たれる。が、石の軌跡は川の流れを横切る。石が縦（S）ならば川は横（T）であり、川を縦（S）とみれば石は横（T）である。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
&lt;span style=&quot;color:#FF0099&quot;&gt;■&lt;/span&gt;&lt;a href=&quot;http://youtu.be/TW1EyI7lmlU&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;tanabata 005 video&lt;/a&gt;</description> 
      <link>http://subtitle.side-story.net/Entry/35/</link> 
    </item>
    <item>
      <title>動きながら終わる</title>
      <description>「わたしは毎日変わっていく。でも本当のわたしはずっと変わらない」
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
数月前、妙に耳についたオリンパスのテレビコマーシャルがあった。マイケル・ウッドフォード解任騒動の前だったはずだ。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
そこで、というのもみょうだが、変化（temporary）と不変（permanent）のエクササイズ。不変から行こう。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
(P) 動かざること山の如くというが&lt;br&gt;
(T) 火山がいつ活動し始めるかを正確に予測することは難しい。&lt;br&gt;
(P) 変わらぬ味と香りを長年守り続けている食品がある。&lt;br&gt;
(T) が、日々の営みに目を向ければ、気温や湿度に応じて細かく材料の配分を調整しているようだ。&lt;br&gt;
(P) 泳ぎ上手は水に乗り、波しぶきを上げない。&lt;br&gt;
(T) だが水面下では優美にであれ、手足を的確に動かしているはずだ。&lt;br&gt;
(P) 静は&lt;br&gt;
(T) 動から生まれる。他方、不得手は筋肉をこわばらせ、虚しく水面を叩く。切り離されたトカゲのしっぽはまた生えてくる。&lt;br&gt;
(P) 生えたしっぽを見て変わらないと捉えるか、&lt;br&gt;
(T) 生えるという生理を奇異と感じるか。体重は案外と変化するもの。&lt;br&gt;
(P) しかしダイエットにいそしむものは、がんばってもがんばっても減らないと語る。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
エクササイズは不変（P）に始まり不変に終わった。それはそうだ、動きながら終わるのは落ち着きが悪い。
</description> 
      <link>http://subtitle.side-story.net/Entry/34/</link> 
    </item>
    <item>
      <title>塔からの視線</title>
      <description>縦（Vertical）と横（Horizontal）のエクササイズ。横から行こう。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
(H) 電線&lt;br&gt;
(V) を張るには電柱が要る。&lt;br&gt;
(H) 綱引きでは、綱は水平に引かれる。&lt;br&gt;
(V) モデルは、首を天から引っぱられているように&lt;br&gt;
(H) 歩く。輪投げでは、輪は地面と水平に飛び、&lt;br&gt;
(V) うまくいけば杭に収まる。塔から&lt;br&gt;
(H) 遠くを眺める目&lt;br&gt;
(V) まっすぐ立ったジャズのウッド・ベース&lt;br&gt;
(H) ロックのベースはふつう横に構える。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
エクササイズは横（H）に始まり横に終わった。もっとも、当エクササイズにはっきりとした終わりがあるわけではない。</description> 
      <link>http://subtitle.side-story.net/Entry/33/</link> 
    </item>
    <item>
      <title>明確な意思について</title>
      <description>使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴があるものにはどんなものがあるだろうか。
&lt;br&gt;
「&lt;a href=&quot;http://subtitle.side-story.net/Entry/31&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;しょっちゅう使うもの&lt;/a&gt;」（2012/04/10）では、使う人はしょっちゅう使うという句が習慣を含意している点にまず注目した。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
整髪料を使う者は毎日のように使うが、使わない人は使わない。大阪に住む者は大阪弁をしょっちゅう使うが、北海道の人は使わない。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
さらに、そうした習慣が形づくられる経緯に恣意の関与する度合が高ければ高いほど、
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
この○○○は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
という文の○○○にしっくりと収まるのではないかという示唆を得た。大阪に生まれた者が大阪弁を使うようになるのは自然の成行である。そこに大阪弁を使うか使うまいかという選択は存在しない。そのように恣意の関与度が低いものは、○○○に置いた場合の収まり具合が悪い。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
言い換えれば、あらかじめ使用することが決まっているものについて、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないという使用に関する命題をその特徴に挙げるべきではない。
&lt;br&gt;
また、自然の成行というものは、使わない人は決して使わないという句の、決してという明確な意思を表す語とはわけてもそぐわない。</description> 
      <link>http://subtitle.side-story.net/Entry/32/</link> 
    </item>
    <item>
      <title>しょっちゅう使うもの</title>
      <description>平田オリザ『対話のレッスン』（小学館・2001）に次のくだりがあった。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
この顔文字は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
そのくだりに拘泥した理由を示しておこう。では顔文字のほかにそうしたひとつの特徴を有するものはあるだろうかと興味がよぎったからである。すなわち、
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
この○○○は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。という文の○○○を埋めるどんなものがほかにあるだろうかという興味である。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
顔文字がコミュニケーションに資する言語の働きを担っている点を思い起こすなら、言語は第一の候補となるだろう。たとえば、
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
この中国語は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
しかし、中国語やフランス語や博多弁については、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないのは当たり前である。本文は何も言っていないに等しいし、当たり前を特徴と呼ぶのは間違っている。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
ならば、そのものに対する嗜好つまりは好き嫌いに収斂する問題だろうか。たとえば
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
この整髪料は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
嗜好というよりは習慣に近い。使う人はしょっちゅう使うという句が習慣を含意しているのだから、○○○と習慣の親和性が高いのは考えてみれば当然である。とはいえ整髪料については、習慣が形づくられる経緯に恣意の関与しうる点は、中国語やフランス語や博多弁の場合との大きな違いではないだろうか。だれしも母語を択ぶことはできないのである。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
ヒントのようなものは見え隠れするのだが、明確な何かに至るための手応えもまだなく紙幅もない。次の機会に持ち越すことにしたい。</description> 
      <link>http://subtitle.side-story.net/Entry/31/</link> 
    </item>
    <item>
      <title>なまはげに要求される安定性</title>
      <description>二、三年前「ロンドン・ブリッジ・エクスペリエンスとロンドン・トゥーム」がゾンビを募集したところ、応募者が殺到した。入場者が暗く長い地下道を歩いていくと、あちこちに潜んでいるゾンビが突然襲いかかってくる。そのゾンビを演じる仕事である。オーディションでは狭き門をくぐるために、自前の衣装に身を包んだ候補者たちが、どれだけ人をびっくりさせられるかを競い合った。応募者数が求人側の予想を大きく上回った背景には、高い失業率という社会事情もあった。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
先月、秋田県男鹿市が名物なまはげに扮して観光を盛り上げる「なまはげのなり手」を募集しているとのうわさが駆け巡った。うわさとは書いたが、むろん真実だろう。市ではこれまで行事の際には、観光協会の職員やその知人などがなまはげに扮してきた。しかし、震災後の観光を盛り上げ、その過程を発信していくためには三人のフルタイムのなまはげが必要との判断に達したという。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
観光イベントに出向き、その模様などを発信するためだろう、運転免許と基礎的なコンピュータースキルが要件となっている。が、私の関心はただ一点につきる。オーディションは催されるのだろうか。
&lt;br&gt;&lt;br&gt;
ゾンビに瞬発力や意外性が求められるのに対して、なまはげに要求されるのはむしろ安定性であるだろう。だからというわけではないが、オーディションは催されない気がする。</description> 
      <link>http://subtitle.side-story.net/Entry/30/</link> 
    </item>
    <item>
      <title>シー・オブ・ラブ</title>
      <description>「What's your name?」&lt;br&gt;
売店にアイスクリームを買いにいくと、店の陽気な男が和子に笑いかけた。日本人観光客には慣れている様子であった。和子が曖昧な顔で見上げるので、「名前を聞いてるんだ。My name isで応えればいいから」&lt;br&gt;
和子は男に向かい、&lt;br&gt;
「My name is Kazuko」&lt;br&gt;
すると男は、&lt;br&gt;
「Oh, Kazuo」&lt;br&gt;
さらに笑みを大きくし、「和夫」という男の子の名前に換えてくりかえした。&lt;br&gt;
和子はそれに何とも満足そうな笑顔であった、ということだ。</description> 
      <link>http://subtitle.side-story.net/Entry/29/</link> 
    </item>

  </channel>
</rss>