使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴があるものにはどんなものがあるだろうか。
「しょっちゅう使うもの」(2012/04/10)では、使う人はしょっちゅう使うという句が習慣を含意している点にまず注目した。
整髪料を使う者は毎日のように使うが、使わない人は使わない。大阪に住む者は大阪弁をしょっちゅう使うが、北海道の人は使わない。
さらに、そうした習慣が形づくられる経緯に恣意の関与する度合が高ければ高いほど、
この○○○は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
という文の○○○にしっくりと収まるのではないかという示唆を得た。大阪に生まれた者が大阪弁を使うようになるのは自然の成行である。そこに大阪弁を使うか使うまいかという選択は存在しない。そのように恣意の関与度が低いものは、○○○に置いた場合の収まり具合が悪い。
言い換えれば、あらかじめ使用することが決まっているものについて、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないという使用に関する命題をその特徴に挙げるべきではない。
また、自然の成行というものは、使わない人は決して使わないという句の、決してという明確な意思を表す語とはわけてもそぐわない。
「しょっちゅう使うもの」(2012/04/10)では、使う人はしょっちゅう使うという句が習慣を含意している点にまず注目した。
整髪料を使う者は毎日のように使うが、使わない人は使わない。大阪に住む者は大阪弁をしょっちゅう使うが、北海道の人は使わない。
さらに、そうした習慣が形づくられる経緯に恣意の関与する度合が高ければ高いほど、
この○○○は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
という文の○○○にしっくりと収まるのではないかという示唆を得た。大阪に生まれた者が大阪弁を使うようになるのは自然の成行である。そこに大阪弁を使うか使うまいかという選択は存在しない。そのように恣意の関与度が低いものは、○○○に置いた場合の収まり具合が悪い。
言い換えれば、あらかじめ使用することが決まっているものについて、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないという使用に関する命題をその特徴に挙げるべきではない。
また、自然の成行というものは、使わない人は決して使わないという句の、決してという明確な意思を表す語とはわけてもそぐわない。
平田オリザ『対話のレッスン』(小学館・2001)に次のくだりがあった。
この顔文字は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
そのくだりに拘泥した理由を示しておこう。では顔文字のほかにそうしたひとつの特徴を有するものはあるだろうかと興味がよぎったからである。すなわち、
この○○○は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。という文の○○○を埋めるどんなものがほかにあるだろうかという興味である。
顔文字がコミュニケーションに資する言語の働きを担っている点を思い起こすなら、言語は第一の候補となるだろう。たとえば、
この中国語は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
しかし、中国語やフランス語や博多弁については、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないのは当たり前である。本文は何も言っていないに等しいし、当たり前を特徴と呼ぶのは間違っている。
ならば、そのものに対する嗜好つまりは好き嫌いに収斂する問題だろうか。たとえば
この整髪料は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
嗜好というよりは習慣に近い。使う人はしょっちゅう使うという句が習慣を含意しているのだから、○○○と習慣の親和性が高いのは考えてみれば当然である。とはいえ整髪料については、習慣が形づくられる経緯に恣意の関与しうる点は、中国語やフランス語や博多弁の場合との大きな違いではないだろうか。だれしも母語を択ぶことはできないのである。
ヒントのようなものは見え隠れするのだが、明確な何かに至るための手応えもまだなく紙幅もない。次の機会に持ち越すことにしたい。
この顔文字は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
そのくだりに拘泥した理由を示しておこう。では顔文字のほかにそうしたひとつの特徴を有するものはあるだろうかと興味がよぎったからである。すなわち、
この○○○は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。という文の○○○を埋めるどんなものがほかにあるだろうかという興味である。
顔文字がコミュニケーションに資する言語の働きを担っている点を思い起こすなら、言語は第一の候補となるだろう。たとえば、
この中国語は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
しかし、中国語やフランス語や博多弁については、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないのは当たり前である。本文は何も言っていないに等しいし、当たり前を特徴と呼ぶのは間違っている。
ならば、そのものに対する嗜好つまりは好き嫌いに収斂する問題だろうか。たとえば
この整髪料は、使う人はしょっちゅう使うが、使わない人は決して使わないというところに、ひとつの大きな特徴がある。
嗜好というよりは習慣に近い。使う人はしょっちゅう使うという句が習慣を含意しているのだから、○○○と習慣の親和性が高いのは考えてみれば当然である。とはいえ整髪料については、習慣が形づくられる経緯に恣意の関与しうる点は、中国語やフランス語や博多弁の場合との大きな違いではないだろうか。だれしも母語を択ぶことはできないのである。
ヒントのようなものは見え隠れするのだが、明確な何かに至るための手応えもまだなく紙幅もない。次の機会に持ち越すことにしたい。
二、三年前「ロンドン・ブリッジ・エクスペリエンスとロンドン・トゥーム」がゾンビを募集したところ、応募者が殺到した。入場者が暗く長い地下道を歩いていくと、あちこちに潜んでいるゾンビが突然襲いかかってくる。そのゾンビを演じる仕事である。オーディションでは狭き門をくぐるために、自前の衣装に身を包んだ候補者たちが、どれだけ人をびっくりさせられるかを競い合った。応募者数が求人側の予想を大きく上回った背景には、高い失業率という社会事情もあった。
先月、秋田県男鹿市が名物なまはげに扮して観光を盛り上げる「なまはげのなり手」を募集しているとのうわさが駆け巡った。うわさとは書いたが、むろん真実だろう。市ではこれまで行事の際には、観光協会の職員やその知人などがなまはげに扮してきた。しかし、震災後の観光を盛り上げ、その過程を発信していくためには三人のフルタイムのなまはげが必要との判断に達したという。
観光イベントに出向き、その模様などを発信するためだろう、運転免許と基礎的なコンピュータースキルが要件となっている。が、私の関心はただ一点につきる。オーディションは催されるのだろうか。
ゾンビに瞬発力や意外性が求められるのに対して、なまはげに要求されるのはむしろ安定性であるだろう。だからというわけではないが、オーディションは催されない気がする。
先月、秋田県男鹿市が名物なまはげに扮して観光を盛り上げる「なまはげのなり手」を募集しているとのうわさが駆け巡った。うわさとは書いたが、むろん真実だろう。市ではこれまで行事の際には、観光協会の職員やその知人などがなまはげに扮してきた。しかし、震災後の観光を盛り上げ、その過程を発信していくためには三人のフルタイムのなまはげが必要との判断に達したという。
観光イベントに出向き、その模様などを発信するためだろう、運転免許と基礎的なコンピュータースキルが要件となっている。が、私の関心はただ一点につきる。オーディションは催されるのだろうか。
ゾンビに瞬発力や意外性が求められるのに対して、なまはげに要求されるのはむしろ安定性であるだろう。だからというわけではないが、オーディションは催されない気がする。

